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障がい者への偏見を持つ人は「心の障がい者」である

前回の本欄で書いたとおり、私は以前、教育雑誌の編集をしておりました。
教育というテーマのなかには、いじめや不登校、ひきこもり、学力アップ、早期教育の問題、脳科学の知見にもとづく教育方法、教育指導要領の改訂問題などなど、さまざまな問題があります。
そのなかで、私がいつも気にかけて何度も取り上げてきたテーマが、障がいへの理解とサポートを広げるための企画でした。
障がいのなかでは、目に見えやすい肢体不自由や知的障がいよりも、目に見えにくい発達障がいをより多く取り上げました。

実は、私の父は生まれて間もなく、小児マヒになり、片足がびっこになってしまいました。障がい者になったわけです。
自分の父親が障がい者である、ということは、幼いときはまったく意識しませんでしたが(当たり前ですよね)、幼稚園から小学校へと成長するにしたがって、障がいということをおぼろげながらわかるようになっていきました。
しかし、障がい者というのは、障がいのある部分については確かに不自由なのですが、それ以外はまったく健常者と変わりません。普通の人よりもすぐれているところも、たくさんあります。障がい者だから、人間として劣っていることはまったくありません。むしろ、障がいというハンディを乗り越えてきたことによって培った人間的な力や優しさは、健常者よりも一歩も二歩も上をいくのではないか、と思います。

昭和3年の早生まれであった父は、戦前の軍国主義教育のなかで「子どもは大きくなったら兵隊さんになる。そして、天皇のために死ぬことが最高の名誉である」というような教育を受けてきました。ところが、父は障がい者であるために、まともな兵隊になれない、と皆から言われ、いじめられ、学校の先生からも「お前は、どうせ兵隊になれないのだから、生きていても意味がない。迷惑だ」などと、今から見ると人権じゅうりんもはなはだしい言動を浴びせ続けられてきました。
おそらく、そうした周囲の言動によって、想像を絶するほどの苦痛を受け続けてきたと思いますが、しかし、人生に絶望することなく、へこたれずに必死に生き抜いてきました。
障がい者ゆえに会社をクビになり、家族が路頭に迷ってしまったこともありましたが、そのときも必死に仕事を探しながら、屋台を引いてお金を稼いだり、さまざまな苦労をしてきました。
私は、そうした苦労を乗り越えてきた父を尊敬しています。

冒頭に述べたように、教育雑誌の編集者時代に、障がいの企画をしばしば掲載したのは、そういう背景があるからかもしれません。
私は、障がいを持っている人は、実は健常者よりももっともっとはるかにすぐれた人格と人間的強さがあると思っております。
誰しも、望んで障がい者になった人はいません。障がい者である自分と日々、向き合い、そのハンディを乗り越えようと、内なる力をそのつど大いに引き出している障がい者の方のことを理解するならば、障がい者に対して偏見を持つことはありえないと思います。
そして、障がい者をもつ家族も、障がい者と共に生きることによって知らず知らずのうちに成長することができます。障がいのハンディをともに乗り越えようとするからです。そのおかげで、家族に障がい者がいない人よりも人間的な優しさや思いやりは、深くなることができます。家族の絆も深まります。

その意味でいえば、障がい者をどう支えるかを真剣に考えて、配慮することができる社会は、それだけすぐれた社会だといえます。
そういう配慮が足りない社会は、人間的な成熟度が低い社会です。
障がい者とどう向き合うことができるかどうかは、その人間が成熟した人間なのか、未熟なのかを知る1つの基準になると思います。
障がい者をきちんと理解できない人、障がい者への偏見や差別の心がある人は、その人の心自体に重大な「障がい」があるといわざるをえません。
そういう「心の障がい者」こそ、人間的に劣っているんだ、という思想が一般的になれば、今よりももっといい社会になると思います。
そういう社会では、いじめなどの深刻な教育問題は少なくなると思います。
高齢者への配慮も、今よりももっとできるようになり、高齢社会のさまざまな問題を克服することもできると思います。

私は、すべての問題は、自己中心のエゴイズムを克服し、人間としての「思いやり」の心が豊かになれば解決できるのではないか、と思っています。
その基準は、障がい者をどう見るか、障がい者にどう接することができるか、という身近な視点にあると思います。

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