ブログ

子どもの才能の芽を育てる教育を

辻公園にて

私は、昨年の秋まで、小さな出版社で教育雑誌の編集をしておりました。
世間ではあまり知られていない教育雑誌ではありましたが、私の意気込みとしては、「日本一の教育雑誌」を目指して、ほかのどの雑誌にも負けない内容の企画で勝負しよう、とありとあらゆるほかの教育雑誌を見比べつつ、日々、勉強し、世の中の教育情報を見聞し、なによりも読者の求めるものにマッチするように努力してきたつもりです。

その教育雑誌の仕事を通して、私が学んだことは数多くあります。
そのなかでも、私が心に刻んだことは、以下のようなことでした。

○子どもは、親の言うとおりには育たない。しかし、親の真心には必ず応える存在である、ということ。
○どんな子どもにも、その子にしかない「才能の芽」がある、ということ。
○子どもの「才能の芽」を伸ばす養分は、ただ1つ「愛情」しかない、ということ。
○親にとって、あるいは教育者にとって、「子どもを育てる」ということは「自分を育てること」であり、「子どもと一緒に成長する」こと。
○子育ては、いつでもやり直しがきく、ということ。

親は、子どもに「こうなってほしい」という希望や期待をもちます。それは当然のことだと思います。私もそうです。
そして、社会の中でやってはいけないこと、守らなければならないことは、親がきちんと教えなければなりません。
そのうえで、「子どもにとって、よかれ」と思って親が子どもに対して、「こうしなさい」と指図して押し付けることがあれば、それは子どもにとって「負担」になります。
子どもは、もともと素直な心があるので、親の希望や期待を敏感に感じとって、それに応えようとします。
能力の高い子どもであればあるほど、その期待に応えることができるので、自分が本来やりたくないことであっても、親の期待のためにがんばってしまいます。

ところが、本当の自分の気持ちと乖離すればするほど、自分の心のなかで、「親の期待に応えよう」とする自分と「本当の自分らしく生きたい」という自分との葛藤に悩まされるようになります。そして最後は、そうした葛藤のあげく、「本当の自分らしく生きたい」という心が勝ち、それまでの「仮面の自分」を脱ぎ捨てようとして、大きな爆発が起きます。あるいは、親思いの心の優しい子である場合には、心の病になってしまうこともあります。
いずれにしても、親は、そのとき期待外れにがっかりして「こんな子どもに育てた覚えはない」とか「こんなはずじゃなかった」と思うものです。たとえ、そういう言葉を言わなくても、そういう心は子どもに伝わります。それが一層、子どもの心を傷つけてしまうものです。
しかし、冷静に振り返ることができる人は、そのとき初めて、その子の本当の気持ちを理解することになります。
私は、子どもを愛するということは、その子をありのまま受け入れて、そのままの子どもに惜しみなく愛情を注ぐことだと思います。
子どもは、ときには親にとって理解不能な言動をすることがあります。憎たらしいことを言うこともあるし、親の気に入らないことをするときもあります。もちろん、子どもに対してきちんと注意すべきことは注意してあげなければなりません。そのうえで、その子をありのまま受け入れるということは、意外に難しいものです。
しかしだからといって、「子どもが親のいうとおりにすれば愛するけれど、そうしなければ愛してあげない」というのは、愛情ではありません。
愛には、忍耐と根気が不可欠です。

教育の世界では、「人を傷つけないこと」「友達を大切にすること」「平和を愛する心」「やる気を出すこと」「最後まで粘り強くがんばること」などを「教えよう」としますが、これらのことは「理屈で教えるもの」ではない、と思っております。
「理屈」ではなく、大人の振る舞いを通して教えるものです。

子どもにとって、「押し付け」以外の何物でもない言葉の典型例が「勉強しなさい」という言葉です。
小学生以上の子どもは、「勉強しなければいけない」ということは、大人に言われなくてもわかっています。
しかし、「勉強がつまらない」から勉強したくないだけです。
子どもは、楽しいことしかしません。「勉強」が楽しいことだ、とインプットされた子どもは、「勉強するな」と言っても、やります。
「勉強」を無理やりやらされて「勉強とは、辛くて苦しいものだ」とインプットされた子どもは、勉強しません。そういう子どもに「勉強しなさい」という言葉を投げかけても、それは「拷問」以外の何物でもありません。
要は、こちらが子どもの好奇心をどう引き出し、どう導いてあげるか、なのだと思います。
そして、子どもが興味をもって一生懸命に夢中になれるものが何か、というものに親が気づいてあげることです。
何かに一生懸命になれる子は、「ものごとに夢中になる楽しさ」を知っています。
そういう子は、勉強もやり方さえわかれば「夢中になれるもの」だということに気づくことができます。
しかし、夢中になるものをもっていない子どもは、勉強にも夢中になれません。
「ほかに楽しいことがないからゲームをやる」という場合、その子は、本当は自分が夢中になれるものを大人から取り上げられてしまった可能性があります。

本来、子どもは赤ちゃんのときには「伸びたい」「成長したい」という意欲と好奇心に満ちた存在なのですが、「まだ小さい子どもだから」と大人が油断して、その意欲と好奇心を知らず知らずのうちに奪ってしまっていることがあります。
子どもが一生懸命になるものは、たいがい、大人にとって(特に母親からみると)、無意味でくだらないことが多いものだからです。
しかし、大人からみれば無意味でくだらないことでも、その子にとっては、もっとも重要であることがあります。それが犯罪や社会のルールを犯すものでなければ、大人も一緒に夢中になって遊べばよいのです。
子どもが小さいときに一緒に遊ぶときは、大人が夢中になって遊べば、いつしか子どもも夢中になって遊びます。
そのように子どもと大人が夢中になって遊ぶもののなかに、その子のなかに眠る「才能の芽」がすくすくと育っていくものだと思います。

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

CAPTCHA


PAGE TOP