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告別式に参列、生きることの価値を思う

本日は、私が何十年も前から一緒に闘ってきた人の母親の葬儀に参列いたしました。
その当人は、くも膜下出血でつい最近、倒れて以来、意識が正常に戻っていません。
母親は、そうした息子の看病のなかで突然、倒れて亡くなったのです。
ですから、息子は母親が亡くなったことを知りません。
なんともいえないほど悲しい出来事が矢継ぎ早に襲ったその方のことを思いめぐらしながら、葬儀に参列いたしました。

人としてこの世に生を受けることは、私たち人間の浅知恵では計り知れないほど深く大きな意味があると思います。
その人生の途上には、想像を絶するような思いもよらない出来事が起こることがあります。
そういう人生を生きていくことには、やはり計り知れない大きな意味があるに違いありません。

思えば宇宙には、無機質な物質しかありません。
その無機質な物質が寄せ集まって、有機物となり、さらに私たち人間やそのほかの生物のように、「生命」を宿して生きているということには、どのような意味があるのでしょうか。
私たち人間も、そしてほかのすべての生物も、どんなに体を詳細に分析しても、目に見えるものは、物質でしかありません。
それも、宇宙が始まったといわれる「ビッグバン」という、140億年も昔のときに誕生した物質が、いま、私たちの体を構成しているのです。
さらに、私たち人間やそのほかのすべての生物は、死んだあとも、この肉体は滅びても、肉体を構成している物質は永遠に不滅に続くのです。

考えてみれば、無機質だらけの宇宙のなかで、このように生命をやどし、さらに人間のような高等生物が生まれ、意思を持って生きている。
このことは、宇宙のなかで、きわめて奇跡にも近い、稀有なことです。
この地球以外にも生命体がある可能性は否定できません。
しかし、いまだに地球以外に、私たち人間のような高等生物の存在は確認されていません。

このように、無限大に近いほど広大な宇宙のなかで、地球という奇跡の星があり、そのなかで、人間という奇跡のような生物が存在しています。
私たち人間は、まさにその奇跡の存在なのだ、ということを改めて思います。
その稀有な存在である私たちが、宇宙と比べれば一瞬のように短い人生をどのように生きるのか――このことを知るために、東洋の叡智は大いなる示唆と智慧を与えてくれています。
私は、そうした智慧を覚知したブッダの偉大さを改めて認識しました。

さて、夕方には、久しぶりに愛犬とともに我が家の目の前の彩湖を散歩しました。

ナナちゃん2

夕方の空には、茜色に染まる雲が浮かび、そして半月形の月が浮かんでいました。
この世は、なんと美しいことか。
しみじみと見とれてしまいました。
ありきたりですが、生きていること自体、素晴らしいことです。
そして、生きている手ごたえというか充実を感じる人生が、喜びをもたらしてくれます。
結局、なんでもいいから世の中に価値を生み出すような貢献こそが、人生を充実させてくれるのだと思います。

彩湖と月

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