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卒業式のシーズンに思う

3月は卒業式のシーズンです。
先週の13日にはさいたま市の市立中学校での卒業式がおこなわれ、私も地元中学校の卒業式に出席させていただきました。
いつも思うのですが、わが子の小学校の入学式と卒業式と中学校の入学式と卒業式は、平日だったため仕事で多忙だった私は会社を休んで二人の子供たちのそれらの式に参加することはかないませんでした。
そういうこともあり、わが子も小学校のときはこうだったのかな、中学校のときはどうだったのかな、と思いながら、式典を見つめております。

そして、昨日(3月18日)は娘の大学の卒業式でした。
残念ながら4月に控えた統一地方選挙の関係で、出席することはかないませんでしたが、しかし、これで子供たちが二人とも社会人になると思うと、ほっと肩の荷がおりるのを感じます。
人生のなかで、学校で学ぶ時期というのは、小学校から大学まで通算すると16年間です。
長いようですが、日本人の平均寿命80歳あるいは85歳と比べるとほんの5分の1ほどにすぎません。
学校を卒業してからの人生のほうがはるかに長いわけです。
しかし、いうまでもなく学校時代の生き方は、その後の人生を決定づけます。
学校時代に何に打ち込み、どういう力をつけたかによって、その人間の将来が決まるのです。

そういうことが身に染みてわかるのは、残念ながら学校を卒業してからなのです。
そこに人生の難しさがある。
怠惰のままに流されて、要領だけを覚えて学校時代を過ごした人間は、少しつきあってみるだけで、そのうすっぺらさがすぐにわかります。
要領だけの人間は、すぐにはその化けの皮がはがれないこともありますが、遅かれ早かれ必ずはがれます。

かつて私が学生時代に家庭教師や塾の講師などのバイトをかけもちして、生活費を稼いでいた時代に、ある生徒からこういう質問を受けました。
「学校で習う数学の方程式って、社会に出てからなんの役に立つの?
こんなものできなくても、生活には何も困らないから、やってもやらなくても関係ないんじゃないの?
英語にしても、外国に行かなければ関係ないし、古文や漢文も読めなくても現代では関係ないんじゃないの?
要するに、学校の勉強って、なんのためにやるの?」
と。

当時、私は学校の成績を短期間で上げて結果を出すために、かなり要領主義の勉強の仕方を教えようとしていたからかもしれません。
この問いに対して、私はどう答えればよいのか悩みました。
大学受験では必要だから、という程度の答えでは、その生徒にとってはなんの意味もないことがわかっていたからです。

結局、私はその生徒に対して、正直にこう言いました。
「確かに、社会で直接役に立つケースは、ほとんどないと思う。
だから、あなたが数学や英語や古文・漢文という勉強がしたくないのなら、しなければいい。
その代わり、自分が何かに打ち込めるものを探して、それを徹底的にやる、という経験をもてるようにしたほうがいいと思う」
と。
こんな答えは、ひきょうな答えであり、ある意味で「逃げ」だ、と自分に対して嫌悪感を感じたことを覚えています。

「なんのために学ぶのか」
この問いを改めて考えると、実は人間にとって本質的な問いであると思います。
これはもっと突き詰めて考えると
「人間は何のために生きるのか」
という問いとも深く関連すると思います。

そして、その問いを発するとき、その奥底には、人間の本然的な欲望である「大きな喜びを得たい、真の幸福を味わいたい」という欲望があるのではないか、と思えてなりません。
だから、表層的な物事に飽き、喜びを感じることができず、退屈な不満にさいなまれてしまうのではないか、と思います。
これは、NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」のなかで、吉田松陰の門下となる高杉晋作が、吉田松陰と出会うまでは常に退屈を感じていたのと似ているのかもしれません。

私に質問したその生徒が高杉晋作のように退屈を感じていた、ということではないと思いますが、しかし、はからずも人生の本質的な問いを発していたことは事実でした。
今の自分ならば、その生徒に理解されようがされまいが、自信を持ってこう答えます。
「勉強する、ということには3つの意味がある。
1つは、自分の頭脳を鍛える、ということ。
2つ目は、鍛えられた頭脳によって、より高度な学問を学び、高度な知性を磨くことが可能になるということ。
3つ目は、高度な知性を身に着けた人間は、社会に出たとき、人々のために役立つ大きな仕事ができる人間になれる道が開ける、ということ」

このような答えは、その当時16歳だった生徒には、理解不能だったでしょう(^_^;)
しかし、真の喜びや幸福というのは、人のため社会のために尽くす生き方のなかに生まれる、という信念をもてるようになった私にとって、この答えはある意味で「なんのために生きるのか」という答えでもあるのです。
学校で学んでいる子供たちにとっては、数学の方程式や英語や古文・漢文などを「実際の生活とはほとんど関係ないのに、なぜ勉強しなければならないのか」という、目先の小さな落とし穴にはまりがちです。

しかし、そうした小さな目先のことにとらわれて迷路にはまってしまうと、目の前にたちはだかる小さな壁が、あたかも自分にとって大きな壁のように見えてしまって、人生の大きな目的はまったく見えなくなります。
それが見えなければ、勉強する意味も見えなくなり、勉強することがばかばかしくなってしまう、という負のスパイラルにはまってしまいます。

そういうことは学校で学ぶときだけではなく、学校を卒業して社会人になってからも、往々にして陥りがちな「人生の落とし穴」です。
この落とし穴にはまったものは、小さな落とし穴の中の壁しか見えないので、人生全体のなかで今の自分が何をすべきなのかもまったく見えません。
やはり、自分の人生を大きな視野から全体観に立って見なければわからないことがあるものなのです。

いろいろな人間を見てきて思うのは、挑戦する生き方が身についた人間は、年を重ねるごとに大きく成長していくので、そういう人間と付き合っているとこちらも楽しくなります。
だから私も、何事にも真正面から挑戦し、どこまでも成長しよう、という青年の心を失ってはなるまい、と自戒を込めて思います。

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