ブログ

体罰は必要悪か絶対悪か?

今朝、NHKの「ニュース深読み」という番組の中で、体罰について取り上げておりました。
私は、教育雑誌の編集という仕事をしてきたなかで、学校教育の場だけではなく、家庭教育の場においても、また、いかなる教育の場においても、体罰は子どもにとって百害あって一利なしであり、絶対悪である、という立場です。

体罰を容認する人のなかには、「昔は、ビンタなんてしょっちゅうあった」ということを言います。
しかし、昔も今も、子どもの立場に立ってみれば、暴力によって服従(=支配)を強いられるということは、決してプラスの教育効果はありません。
元プロ野球選手だった、桑田真澄選手は、自身の経験から「体罰は、されるのもいやだし、ほかの子どもが体罰を受けるのを見るのもいやだった」と述べていますが、これこそ正常な感覚だと思います。

ところが、体罰を容認する人にとっては、「体罰という名の暴力行為を見ても平気だ」ということになります。
このように、暴力を肯定する人間になってしまうと、体罰を受けた人間が今度は他人に対して暴力を振るうことも正当化するようになります。
たとえば、自分の友人や恋人や妻や子供に対して、暴力を平気で振るうことになります。

そういう人間は、もはや正常な感覚ではありません。
暴力によって相手を自分に従わせる、というやり方をおこなえば、なぜそうしなければならないのかをきちんと理解・納得させることはできなくなります。
つまり、暴力を受ける側にとっては、暴力によって支配されているから、いやおうなく従うだけなのです。
しかもそのような暴力を振るう人が、たとえ正しい理屈を言ったとしても、そういう人間の話を素直に受け入れるような心理にはなれないものです。

ときおりスポーツの世界などでは、「コーチや監督から暴力を受けることを耐えることによって、根性がつく」という、一見もっともらしい屁理屈を垂れる人がいますが、それは完全に間違っています。
暴力に耐えることによって養われるのは、「暴力を振るう相手に対する怒りに耐える忍耐」であって、試合で苦しいときに耐えるための「忍耐」とは異なります。
本当の「忍耐」とは、自分が掲げた目標をあきらめずに持ち続け、どんなに苦しい練習であっても自分で自分を支えながら必死に耐えることなのです。
暴力に耐える「忍耐」は、ハードな練習や試合での困難さを乗り越えるための「忍耐」とは、「似て非なるもの」なのです。

では、体罰以外に、子どもを指導するにはどうすればいいのか?
それには、「コーチング」という方法があります。
もともとコーチングとは、スポーツの世界でレベルアップをはかるためにおこなわれてきた指導方法です。
それが、いまでは会社における社員教育や、あるいは家庭での子育てなど、さまざまな分野でもおこなわれるようになってきました。

コーチングというのは、そばに寄り添って、相手のレベルに応じて、そのレベルを引き上げていくために適切な指導をほどこしていくことです。
無理やり、相手を服従させるための体罰などは、コーチングではありえません。
相手のレベルや相手の性格などを理解し、相手に応じた指導をおこなうコーチングには、コーチとしての力量がなければできません。

私は、体罰をおこなう教師を生まないためには、教師の「コーチング」の力、つまり指導力を養うことが重要だと考えています。
大学の教育学部で学ぶ勉強だけで、指導力は身に付きません。
しかし、現在の教育制度では、大学を卒業したての教師が4月からすぐに教師として担任を受け持つことがあります。
大学を卒業したばかりの、世の中のことをよくわからない人間が、その未熟さを抱えたまま教壇に立つという今のシステムは問題だと思います。
実は、かくいう私の息子も、昨年4月に大学を卒業してすぐに小学校の教師として教壇に立っておりますが、「こんな息子が担任をしていて、本当にいいのだろうか」と不安な気持ちで見ております。

もっと教師を育成するシステムをきちんと作ることこそが、体罰の問題に対する根本的な改善策ではないか、と思っております。

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

CAPTCHA


PAGE TOP