ブログ

中学校の卒業式に参加して思うこと

昨日は、さいたま市議会の最終日でした。
本会議終了後、日ごろお世話になっている議員と執行部との調整役である調整官との懇親会を開き、交流を深めました。

本日は、午前中、地元の中学校の卒業式に参加しました。
卒業生324名のうち、男子生徒175名、女子生徒149名となっており、よく言われている通り、「男子が女子よりも少し多い」ということが、ここでも該当しておりました。
それはともかく、15歳といえば、もはや子どもではありません。
風貌や言動は、まだ子供じみたところもありますが、しかし、在校生の送辞にしても、卒業生の答辞にしても、人間の心に深い洞察の目を向けるとともに、社会や人生にも鋭い分析と理解力を示しており、大人でも簡単につくれないようなレベルの高い内容に感心しました。

よく大人は、「近頃の若い者は、○○だ」と言います。
この「○○」には、たとえば、「だらしない」などというような、否定的な言葉が入ることがよくあります。
そして、次に続く言葉は、「自分たちがその年代のときは、○○だった」などと言います。
この「○○」には、「こんなこともやった、あんなこともやった」という自慢めいた言葉が入ります。

しかしよく考えてみれば、人類の歴史において、いつの時代でも言われてきた言葉が「近頃の若い者は……」という言葉であった、ということをある歴史学者が指摘していたことがありました。
つまり、いつの時代も大人たちは、若い世代をややもすると見下したような見方をしてきたわけです。
しかし、事実は違います。
大人たちよりも若い世代のほうが、もっと成長してきたからこそ、人類の進歩があったのです。
少しおおげさな話になってしまいましたが、本日の卒業式での生徒たちのいろいろな姿を見ながら、私は、「後生畏るべし」という言葉を思い出しておりました。

彼らが成長して社会のなかで活躍するときには、今の大人たちが克服できない社会の課題を解決してくれる人材が必ずいるはずであり、そういう人たちがいる、と思うと「後生畏るべし」、と思わざるを得ないからです。
私は、教育雑誌に携わってきたなかで、「教育とは何か」という命題について、よく考えることがありました。
私なりの答えは、「教育とは、共育である。つまり、教える側が教えられる側に一方的に知識や技能をほどこすことではなく、教える側も教えられる側と共に育つ過程のなかに、教育がある」ということです。
言い換えれば、教師が上から高い位置に立って生徒を見下ろして教えるのではなく、教師も生徒も共に、高い目標を目指して向上の道を歩もうとする、その歩みそのもののなかに、教育があるということです。
それが、私の信条であり、これは学校だけではなく、家庭教育でも、あるいは会社でもスポーツの世界でも芸術の世界でもすべて同じだと思います。
それは、ある意味で「師弟不二」という言葉に置き換えることもできると思っています。
ちょっと脱線しすぎたので、この議論はここでやめます(^o^)

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

CAPTCHA


PAGE TOP